お父さんは、君たちが18歳になるまでに、体を動かし、感性を磨くことを教育の第一義的な目的と考えている。なぜならば、そうすることで脳の機能が活発になるからである。
脳が活発に機能し、活動範囲が広がれば、いろいろなことに興味を持ち、考えるようになる。
お父さんの考える教育の目的はここに集約される。
人生のどこかで、君たちは、頭がいいとか、悪いとか、人から言われ、評価を受ける経験をするかもしれない。そして、頭がいいことは勉強ができることと思うかもしれない。少なくとも、周りの人たちはそう評価するだろう。
しかし、そこに本質的な意味はない。
赤ちゃんの頃から君たちを観察し、お父さんが見ていたことは身体の動きだ。
君たちは、赤ちゃんの頃、家のいたる所に這いつくばって歩き、いつの間にか、つかまり立ちをするようになった。時には頭をぶつけ、転倒し、泣いたと思ったら、また同じことを繰り返す。
君たちにとっては、家にあるものすべてが未知の世界のもので、興味の対象だったのだろう。その対象に向かって君たちは歩き、転び、泣きわめきながら成長してきた。
その行動が情報として五感に伝わり、脳を鍛えてきた。
もう、その時のことはほとんど覚えていないだろう。
しかし、そのように動いてきたことが君たちの考える力を育んでいることは間違いない。
五感を使い、脳を鍛える。別の言い方をすれば、これは実体から学習するという意味だ。
だから、お父さんは「何でもやれ」と言う。あまりにも危険なことや人様に迷惑をかけるようなことはダメだが、それ以外のことなら何でもやればいい。
「何でもやれ」は脳を鍛えよという意味だ。
脳を鍛えさえしていれば、勉強なぞは誰でもできる。
日本の教育システムでは、勉強は受験のための単なるゲームに過ぎない。
単なるゲームに過ぎないならば、その攻略法をマスターすれば誰でもクリアできるということだ。
つまり、誰でもできることに価値はなく、だからこそ、そこに時間を割く価値はない。
本質的な価値がないものを勉強しなければならないというのが日本の学校教育だ。
であるならば、とっとと勉強は済ませ、他に興味のあることをした方がいい。
それが学問というものである。
興味がある、関心がある、面白い、楽しい、難しい、わからない、だから知りたい。
これができるのは大学などの高等教育や社会だ。
この次元で求められることは、鍛えられた脳を持っているということである。社会に出れば、子どもの頃から五感を使い、体で感じてきた経験がものをいう。
勉強は確かに必要だ。しかし、五感を使ってこなければ、いくら勉強をしても空想の産物にしかならない。
頭の良し悪しはここに現れる。
頭がいい、悪いなどということは些末な話だ。
大事なのは、子どもの頃から五感を使い、どのように体を動かし、脳を鍛えてきたかにある。
脳を鍛えていれば、自ずと勉強はできるようになる。
ここを思い違わないようにしてほしい。
運動や遊びという機能が勉強のできる脳を育ませる。
君たちは、おそらく、学校を卒業してからも勉強することが当たり前の時代を生きることになるだろう。学び直しというやつだ。社会人教育ともいう。
その時、勉強が嫌いか、好きかで、後の道が大きく分かれる。
この問題は、勉強の好き嫌いに本質があるのではなく、子どもの頃にどのように脳を鍛えてきたかを問うものだ。
地頭という言葉を具体的に表現するならば、そのような意味になる。
だからこそ、運動や遊びを通じ、五感を鍛え、感性の幅、つまり、脳機能の活動範囲を広げることが重要になる。
勉強は、その繰り返しの中でするもので、大人になって学びを深めるための基礎的教養と考えておけばいい。
だから、勉強ができないからといって落ち込む必要はない。
お父さんは、感性を伸ばし、脳を鍛えることを教育の目的にしているのだから。
実体から学習してきたことの延長線上に、社会が広がっていることを忘れないでほしい。